第 9 回
須 永 慶
< あ の 頃 と 今 >
私が東京の国分寺に住んでいたある時期、
今から50年位前に時代はさかのぼります。
当時の記憶は日々薄れてしまい今は断片的にしか思い出さないことの方が多いのですが、
それでもはっきり覚えていることが幾つかあります。
先ずその頃の住所。
「北多摩郡国分寺町花沢***」と言いまして、なんか日本的で穏やかな雰囲気が漂っている、
今でも結構良い住所名だなーと思っているんですが
(差出人によっては字国分寺と「字」を書いてくる人も居ました)、
そんな頃のお話です。
なんと言っても子供心に綺麗なもの、美しいものとして刻みつけられ、
今でもはっきり絵のように思い出されるのは、晴れた日の富士山です。
特に寒い冬の日。
当時私は明星小学校という所に毎日4~50分掛けて歩いて通っていたんですが、
途中しばしばその富士山を「うわっ・・・!」と思って見つめたものでした。
遠いのにほんとに直ぐ手が届きそうなところに富士山がある。
視力も良かったので雪の状態とか縦に入った筋とかほんとに感動して見ていました。
このように表現すると素晴らしい幼年期を過ごした、観察力のある賢いお坊ちゃんみたいですが実は、
これに関連して思い出してしまう、馬鹿馬鹿しい失敗話しがあります。
ある日何時ものようにしばし見とれ、さあ、行こうと一歩足を踏み出した時、私が
「あれ?背中が馬鹿に軽いなあ」と呟くのと殆ど同時に一緒にいた倉田君と妹が
「あっ、ランドセルは?」
「──ッ!」
あわてて家に駆け戻ったことは言うまでもありません。
勿論学校は大遅刻。でも担任の柴山先生には全然怒られませんでした。
海軍士官学校出の先生は何かあると往復ビンタでしたが
その時はニコッかニヤッとされたように思います。
ほんとに助かりました。
少しずつ開発が進み、遂に国分寺駅にも綺麗な南口が出来ました。
それ迄は駅の南側は広い広い野原でお正月には大勢の子供が凧揚げをしたり、
犬を走らせたり出来る場所でした。
当時は余り遠くに遊びに行くことはなかったんですが、
唯一多摩川に、大人のばかでかい重い自転車に乗って釣りに行ったり、
夏には泳ぎに行く事が遠出と言えるものでしょう。
ある日、お兄ちゃんと釣りに行った時のことです。
「あんま釣り」をしていてふと向こうを見ると、
国分寺駅南口の改札係の人が矢張り「あんま釣り」をしていました。
その人は可成り太っていて顔も黒くて大きく又背も高かったので直ぐ分かりました。
しかし、そう言う風体とは違ってとても親切で優しかったのです。
1匹も捕れない我々小さな兄弟に、
釣れたと言って綺麗なベラを手にとって見せてくれたんですが足が少し滑った途端、
おじさんはその魚をポチャンと川に落としてしまったんです。
暫くして今度はハヤが釣れたと言って又わざわざ見せに近づいた時、
またもやポチャンと落としてしまったのです。
さて3匹目のヤマメが釣れた時、
おじさんは一瞬どうしようか考えてる風でしたが、
有り難いことにまたもや我々幼い兄弟に見せようとして近づいて来ました。
今度は用心していたのでよろけても落とさず上手く行く、かと思いましたが
「もっと良く見せて」
と我々がしつこく頼んだ拍子にまたもやポチャンと川に落としてしまったのです。
さすがに3人とも
「あっ!」と叫びちょっとした間がありましたが、
しかしおじさんは少しも怒ったり我々を非難する事はなかったのです。
今改めて自分が大人になってみて、果たしてあんなに寛大な態度が取れるかどうか・・・、
「優しさ」というかとても印象深い出来事として時々思い出します。
こういう経験や感情を、人間表現に関わるものとしてキラリ輝く財産にしたい、
そう思います。