第 8 回
須永 慶
〈 母 の お 弁 当 〉
芸能学校での生活。
それは朝九時から午後三時前後迄、今のように土曜日が休みという習慣が無い為、
月曜日から土曜日にかけて毎日ハードなレッスンの連続でした。
例えば
帰り道何でこんなに背中とか踝が痛いのか分からず、後になって「ああ、レッスンでか・・・」
と納得した事もありました。
当時住んでいた国分寺から浜松町にある芸能学校迄二時間掛けて遅刻ギリギリに滑り込む。
殆ど毎日駅から学校まで走って、何とか間に合っている状態でした。
一方、講師陣はなかなか素晴らしく、バレーはクラシックの先駆者として活躍された東勇作先生、
ジャズダンスは荻野先生、声楽は宝塚の引田先生、日舞は(お名前は忘れてしまいました)品の良い
花柳流の女性師匠といった具合に知る人ぞ知る可成り高い水準の陣容でした。
しかし当時の我々悪童はそのような有り難いことは知る由もなく、
それはそれは失礼なあだ名を(ちょっと言えません!)各先生に一人残らずお付けしたものです。
でもそのあだ名の底には自分達より遙か先を突き進んでいらっしゃる〔先輩〕に対する
何か尊敬の念もあったように思います。
授業料も正確には覚えていませんが可成り高く、
しかも私の場合アルバイトで全額賄わなければならないので、
親切な売店のおばさん(阿部さんといったかなー?)に紹介してもらった、
日比谷映画館脇のレストラン喫茶バー『スカイルーム』(今は在りません)という所で
夜十時過ぎの閉店迄毎日働いていました。
だから毎日眠くて眠くて遅刻ギリギリのマラソン通学になってしまう訳です。
しかしそういうきつい生活の中、母には大変感謝しています。
それはお弁当を必ず作ってくれたことです。
二年間息子を起こし続けお弁当を持たせ続けて呉れたことがどれ程助けになったか計り知れません。
それが無かったらとても続けられませんでした。
アルバイトに関して言えばこれ以前にも中学・高校時代に寿司屋、お米屋、郵便局、石炭屋
といったところでアルバイトしたことはありますが意味が・・比重が違います。
「スカイルーム」では長期に亘って続けられるかどうかに大きな意味があるのですから・・・。
辞めれば即それは全ての挫折に繋がってしまうので、
兎に角止まらず少なくとも歩き続けていなければ・・・そんな気持ちでした。
だから後ろから自分を支えてくれる『人』の助けが、
母や阿部さんや当時のバイト先の店長をはじめ田村さん、大木さん、コイさん、中高時代の友達、
同期生の応援がとても嬉しく、言葉では表現できない、
初めて抱く『人』への大切な感情を心の奥に刻みつけてくれました。
「自分は今一人で頑張っているんだ!」
と思っていても一人では大した事は出来ず、
『人』は結局何らかの形で『人』に助けてもらうものなのだということが
実感として感じられたものです。