第  4  回

                                     須 永  慶



本 当 に 驚 愕 い た こ と




卒業して大分経った頃、多分半年以上経った頃だと思いますが

テレビを何気なく見ていた時のことです。

それまでにも私の人生において驚いたことは何度もありましたがこの時程愕いたことはなく、

本当に驚愕くとはこのことだと思いました。




あの立石君がテレビで歌っていたのです。


歌のタイトルは『柳ヶ瀬ブルース』、名前は『美川憲一』、

直立不動に近い姿勢で聞き覚えのある低く響く唄声・・・

びっくりして何回も目を凝らして画面に見入りましたが間違い有りません。


「この声に、この顔・・・間違いない、あの立石由一君だ!芸名を『美川憲一』ってつけたのかー」


「ふーん・・・」




 人生には予期しない事、驚く事が起こるとは良く聞きますが、

まさか自分の身の回りでこういう形で起こるとは・・・。





そして暫く興奮してしまい、

黙っていることが出来ずに恥ずかしながら

しばし一人でブツブツテレビの前で騒いでしまったのでした。

芸能学校での同期生では立石君が最も華々しく世に出てきた人です。



後年

今から十年ぐらい前に六本木のテレビ朝日近くの喫茶店で

マネージャーと一緒にいる美川憲一君にバッタリ遇ったことがあるんですが、

わいわいと賑やかによもやま話に花が咲いた後、

思わず「何かあったら宜しく」と二人に頭を下げてしまった自分がいました。


「こりゃ、一体何なんだ、む!不覚!」



しかし考えてみれば、多少の紆余曲折はあるものの、
現在に至る迄の美川君の歌手、司会その他色々な面での活躍・息の長さから判断してみると、

その努力は大変なものであったろうと察しはつきます。

その部分に対してその時思わず頭を下げてしまったのではないか・・・。

不覚には違いないが・・・。




 さて、東宝芸能学校についてもう少し書いてみようと思います。

修業年限は二年間で、最後に卒業公演を行って全て終了。

しかし、卒業してもそれから先のことは具体的には何もありません。


つまり


東宝芸能学校を真面目に通いつめても只二年間学んだということでしかないということです。

私の場合も2年間学んだが、途中から卒業後の心配をしなければならなかった。



 しかし舞踊関係は多少違っていたように思う。
当時は所謂『ショウ』が頻繁に行われていたので、

例えば日劇ダンシングチームといったところには

先輩の卒業生は可成りメンバーとして合格していたし、

同期生も沢山の人が所属し、

近江ツヤ子さんを筆頭に実際可成りの同期生が一時期ダンサーとして成功しました。


しかし、舞踊の世界も生き続けていくのは大変で、

ましてやショウのダンサーは活躍やその寿命に限りがあるのは致し方なく

いつの間にかみんな何処かへ行ってしまいました。

極最近風の便りに近江ツヤ子さんは郷里の九州(四国?)でダンス教室を開いていると聞きました。



後日、近江さんと日劇で同期だったという「小倉在住15年の滝村勝見さん」からBBSの書き込みで、
「青春の日劇時代を思い懐かしい限りです」という事と「近江ツヤ子さんは宮城県出身(塩釜)ではないかと思う」
という御指摘がありました。
これに間違いないと思いますので付記しておきます。



こういう話を聞くのはとても嬉しく、

「オッ!頑張ってるなー」

このまま元気で何時までも近江さんの素晴らしい感性と身体の躍動美を通して


人間の素晴らしさを沢山の人に伝えて欲しい、


「頑張れ!」

と願わずにはいられません。